察しての文化

相手に自分の気持ちを分かってほしい。察して欲しいというのは無駄で無理なことだとわかりつつも、そのせめぎあいはなかなかに難しい。

 

自分の思いをストレートに表現する場合、相手の気持ちも当然推し量るし、自分の気持ちも確かめる。その気持ちと自分の気持ちを天秤にかけた場合、どこからともなく現れた「めんどくさい」物質が目の前に立ちはだかる。

 

そこまで伝える必要があるのか?労力を考えたら、察してくれと祈るばかりではあるけれども、世のなかそうは問屋が卸さない。

 

自分の意見を通したいのが目的ではない。自分の気持ちもすこしは考慮してほしいだけ。でも、相手に察して欲しいと願うのは無駄なこと。

 

結局、エネルギーを割いて伝えるけれども、それで上手くまるく収まることも少ない。労力を惜しんで取り組んだ結果、好転はせず、そのままであることも多い。

 

無駄だったのか。意味のなかったことなのかとは考え、これから説得するかどうかをめんどくさい物質と相談するが、大抵そのまま飲み込まれて話はうやむやに。

 

どうしたらよかったのか。どうするべきなのか。というのは難しい話。相手との折り合いをどうつけるのか中々に難しい。